2023/03/13 18:00
日本の食文化は、稲作文化と密接に関わっています。
以前、日本お米ばなし vol.1 歴史編「稲作はいつどこで始まった?」で、稲作の起源についてご紹介しました。
今回は、日本での稲作のはじまりについてお話したいと思います。
食材が豊かな縄文時代
長い氷河時代が終焉を迎え、地球の温暖化が始まると、海面が上昇して日本は海に囲まれた「日本列島」となって海中に独立し、大陸に別れを告げます。
ナウマンゾウなどの大型獣が姿を消した代わりに、猪や鹿、熊、うさぎやたぬきなどが森林の豊かな木の実などに育てられ、大繁殖していきます。
河川が発達し、標高の低い平野部は遠浅の内海に変わり、魚や貝、海藻などが豊かに生息する絶好の漁場となります。
今から約1万3千年前に登場した縄文人の生業は、採取、狩猟、漁労で、山、森、海、川など自然の中に存在するものが食料資源のすべてだったと言われています。
自然の恩恵に感謝し、四季のめぐりを楽しむ日本人の文化は、この頃から醸成されてきたものなのですね。
気候変動と農耕
縄文時代の晩期(3000年〜2400年前)になると、気候変動が起こり、気温が下降して食料の確保が困難になっていきます。栗やどんぐりなどの主要なカロリー源の採取量が減少し、人口も減少しはじめます。自然の恩恵だけでは、生活を維持できなくなってくると、縄文人の中にはソバや雑穀、ダイズ、アズキなどを小規模に作り始める人も出てきたようです。
縄文時代の遺跡として有名な青森県の三内丸山遺跡では、栗を栽培していたとみられています。
この頃、異常気象が頻発する中、九州北部で水稲の栽培を始める社会集団が登場します。彼らは、水稲栽培技術や金属の道具をたずさえて、大陸から渡ってきた人々でした。
当時の縄文人は、この大陸系の人々と上手に付き合い、その技術を取り込み、日本の風土に馴染ませていったようです。
こうして稲作が北九州に伝わり、100年ほどで本州北端の青森まで伝わり、その後の弥生文化へと繋がっていくのです。
縄文人の新しいものに対する吸収力と理解力、好奇心の強さは、島国日本の発展力のエネルギーとなったのですね。
稲作好適地となった低湿原
古事記や日本書紀で、日本の国の美称として「豊葦原之瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれるように、日本は低湿地が多く、縄文人にとっては役に立たない土地でした。
しかし、弥生人はこの低湿地が稲作に適していることを発見し、水田に改良していきます。
「豊葦原之瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」は、「葦がしげり、稲穂がみずみずしく育って、豊かな国」と解釈されます。
野山や海、河川から、これまで通りある程度の縄文食を手に入れながら、日本人の主食となる米の収穫もするようになります。
元々の縄文食に主食としての米が加わることで、「和食」の基本形ができあがります。和食の一汁三菜は、縄文と弥生の食文化が結びつくことによって生まれてきたのですね。
参考文献:「和の食」全史 縄文から現代まで 長寿国・日本のあゆみ/永山久夫 著、河出書房新社 2017年